1月7日、令和2年初の暴走注意報、51回目が配信されました。
エンディングが思ったよりも時間が余って、時間調整で何か頑張って喋ろうとしたらおかしなことになりました。
同じこと延々と言っていたよね状態。
なう写真は書くことが思い浮かばなかったので「あけおめことよろです」という割と普通な、でも自分には珍しい言い回しになりました。
そんな暴走注意報はこちらからお聞きくださいませ。→Imix Internet Radio Station
・野球事情:83回のセンバツの振り返り
・風任せ:前髪が短い理由
オープニング
本厄突入しました。
前回はオール前厄話になっていましたが、今回厄話はオープニングに止めました。
前回収録後にオーナー井亀に「厄」について聞いてみたら基本的には気にしなくてもよいとのこと。
ただ体調面には気を付けた方がいいのだとか。
体調が変わる?年頃らしいです。
で、「厄払い」も行った方がいいのかなとも思っていましたが、歌舞伎の世界では「厄払い」はご法度なのだとか。
「厄」が「役」と同じ音なので、「役を払う」ことになるからです。
なるほど、私は役者ではないのですが、いろんな「役」が欲しいので厄払いはしないことにしました。
あ、そういえば野球関連今回喋っていなかったなあ。
野球事情:83回のセンバツの振り返り
1月というとセンバツ高校野球の出場校が決まる月ということで、暴走注意報では1月は(野球ネタが少ないので)過去のセンバツを振り返る月にしています。
今回は2011年の第83回のセンバツについてです。
東日本大震災直の大会
83回のセンバツは2011年3月11日に起こった東日本大震災直後の大会でした。
大会の開催自体も危ぶまれましたが開催することができました。
ただ、東北代表の東北高校は組み合わせ抽選に参加できませんでした。
そのため、東北高校の初戦は最後の試合に組み込まれました。
対戦の大垣日大はさぞかし戦いにくかっただろうと思います。
当時、阪口慶三監督もやりにくかったと言っていたと思います。
ただ、大垣日大は先頭打者本塁打をはじめ、容赦ない攻撃。
もちろん手加減等は相手にも失礼だというのもあったでしょう。
この試合の話は当時「スッキリ」でも取り上げられていたなあという記憶があります。
あと、暴走注意報で話すということで、久しぶりにトーナメント表を取り出したら、こんなメモが残っていました。
応援賞とかない。
確かに。
この大会は鳴り物応援が自粛になっていました。
トーナメント表にいろいろ書き込んでいるから記憶を辿るいいきっかけになります。
選手宣誓
やっぱり83回のセンバツというと選手宣誓です。
開催がどうなるかわからなかったので、普通は組み合わせ抽選の時に選手宣誓の抽選があるのですが、この時は開催が決まった後別日に行われました。
しかもくじを引いたのは当時の高野連の会長だった奥島孝康会長(愛媛県出身)。
選ばれたのは創部一年目の創志学園。
創志学園は全員1年生で秋の中国大会を準優勝でセンバツを掴み取ったチームです。
最初、選手宣誓の話を長沢宏行監督は話題作りだと思ったそうです。
もしそうなら辞退して、選手宣誓を東北地方のチームにと思ったそうですが、実際は会長のくじだと知って、初戦は大会初日の第三試合に組み込まれていましたが、試合よりも選手宣誓を優先させたというお話を聞いたことがあります。
そしてその選手宣誓がこちら。
宣誓
私たちは16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。
今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。
被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。
人は、仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えられると信じています。
私たちに今できること。
それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。
がんばろう!日本。
生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。
平成23年3月23日
創志学園高等学校
野球部主将 野山慎介
冒頭部分でゾクゾクっとしたのを覚えています。
いい意味での鳥肌といいましょうか。
私の好きな選手宣誓の不動の第2位です。
全員が新2年生だからこそ言えたという感じです。
「16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました」と言えたキャプテンが何人いたかというと、この前調べたら(新3年生の早生まれキャプテンを調べた)、野山選手を含めて確か5人くらいいました。
ただ、チームのほとんどが、となるとやっぱり全員が新2年生の創志学園だけですよね。
この偶然と、そこに気づいた彼らもすごい。
創志学園は初戦で敗退しましたが、この大会でのハイライトでしょう。
ちなみに、東日本大震災の影響で中継が16時で終了することになっていました。
創志学園の試合は最後まで中継されませんでした。
この年以降、選手宣誓でいいこと言わなきゃいけない雰囲気がどこかありましたが、この選手宣誓を超えることはありませんでした(個人的見解)。
ちなみに好きな選手宣誓不動の1位はこれ以前のものです。
準優勝校
優勝は東海大相模だったのですが、準優勝は九州国際大付。
横浜の高城俊人選手や広島の三好匠選手(当時は投手)がいました。
当時の監督は若生正廣監督。
宮城県出身、元東北高校の監督でダルビッシュ有投手がいたころの監督です。
現在は埼玉栄で監督をされています。
東北出身の監督のチームが準優勝というのもこれも縁なのかもしれない、と思いました。
83回のセンバツは東日本大震災と共にあったんだなあ、と改めて思いました。
風任せ:前髪が短い理由
ラジオなので顔は見えませんが、見たことがある人は知っての通り(?)、私の前髪はパッツンです。
正確にいうとちょっと斜めに切ってくれています。
この前、IwooNOGATAの新年会の時に何故前髪が短いのか聞かれました。
その答えです。
中学時代
中学は田舎の中学らしく校則が厳しいところでした。
私の時代よりも姉の時代の方が厳しかったようですが。
当然前髪は眉より上かピンで留めるかだったと思います。
私は前髪を眉上でバッサリ切っていました。
ギリギリ校則を守る人が多い中、私はがっつり守っていました。
人と違うことをしたい人なので、あまのじゃくというか何と言いますか。
風紀検査の時には顔パスできるレベルで頑張っていました(中学時代は顔パス制度なし)。
蕪っ子時代の写真ですが、まあ、こんな感じですね。
高校時代
高校時代は中学と同じように校則は厳しい方でした。
身だしなみ検査は中学よりも緩かったですが。
最初は中学同様前髪を短くしていたのですが、何か切るのめんどうだなあと思い、逆に伸ばし始めます。
伸ばして後ろ髪とまとめてしまえと。
最初は前髪をくくって上でピンで留めていました。
オデコ全開です。
それをやり始めた時の身だしなみ検査でいつもやっているかの確認をされました。
その後はほぼ顔パスでした。
しかし、この前髪を伸ばしたことは今になって後悔しています。
これが原因で真ん中分けという負の遺産が残ってしまいました。
大学時代
大学の時は校則などなかったので、自由に伸ばしていましたが、やはり目に前髪がかかるのが嫌だったので、眉くらいまでの長さにしていました。
故にさっき書いたように、真ん中分けになっていました。
社会人
社会人になって美容院に行って「奇抜にならない程度に何かしたい」と相談したところ、「敢えて短くするのはどうだろう」と提案していただきました。
大学卒業して直ぐ位だったので、気づいたら10年このスタイルですね。
って、今年大学卒業して10周年でした(驚)!!
それは置いておいて、前髪を短くしたことですごくいいことがありました。
伸びると真ん中分けになる前髪が短いと真ん中分けにならないのです。
なので、今後も何もなければ前髪は短いと思います。
長さだけで言うと中学時代に戻っていますが、結局このスタイルが好きだったんだと思います。
本当にいい提案をしていただいたと思います。
ありがたいです。
次回の暴走注意報は2月11日の第2火曜日です。
建国記念日です。
この週末に誕生日を迎えます。
32歳になります。
時が経つのが早くて憂鬱になりますが、まあ、仕方ないですよね。
歳はとるものなのだ。
そんなわけで、今年も暴走注意報をどうぞよろしくお願い致します。